中国歴史上の108人

   

殷から漢まで 前16世紀頃から220年頃








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ID人   物
1
婦好
2
周公
3
よそ者の妻
4
孔子
5
墨子
6
商鞅
7
孫擯
8
荘子
9
趙の武霊王
10
呂不
11
秦の始皇帝
12
項羽
13
漢の武帝
14
張騫
15
司馬遷
16
王莽
17
班氏
18
王充
19
張陵
20
張角
21
曹操
22
蔡エン







殷から漢まで 前16世紀頃から220年頃 の詩人

中国歴史上の100人002


中國歴史上の100人
殷から漢まで  前一六世紀頃−後二二〇

中国では歴史上の時代区分は文字で書かれた記録にもとづいている。支配者の名前や出来事の目付を正確な記録に残した最初の王朝は股 (前一六世紀頃−前一〇四五頃) だ。股の支配領域は長江流域のごく狭い範囲で、今日の中国に相当する広大な土地には多数の異なる都市や文化が点在していた。股は西方から攻め入った周に滅ぼされた。周の末期に中国は 「戦国の七雄」 が互いに争う戟国時代になったが、最後に秦が統一を果たした。
殷から漢まで 前16世紀頃から220年頃
秦の王は、北はモンゴル、南は広東省、西は四川省まで、現代の 「中国」 のほぼ全土を支配し、始皇帝と称した。始皇帝は帝国を統一すると、国ごとにばらばらだったさまざまな制度を共通化し、厳格な法律や規則にもとづく中央集権制を敷いた。しかし、この帝国は彼の死後まもなく滅亡する。漢王朝は秦を滅ぼしたが、秦の官僚制度を多くの点でそのまま引き継いだ。漢代には中国の影響力が西は中央アジアまで広がり、現在の甘粛省にあたる地域に守備隊が駐屯して、万里の長城の西の端や、防衛線として配置した砦の警護にあたった。

ID 人   物 記 事 ・ 備 考
1 婦好 殷の女将軍
2 周公 理想的官僚
3 よそ者の妻 すてられた妻の物語
4 孔子 思想家
5 墨子 思想家
6 商鞅 官僚・改革者
7 孫擯 兵法理論家
8 荘子 荘子−道家の思想家
9 趙の武霊王 中国にズボンをとりいれた人物
10 呂不韋 宰相
11 秦の始皇帝 中国最初の皇帝
12 項羽 秦に対抗した反乱軍指導者
13 漢の武帝 領土を拡大した中国の皇帝
14 張騫 中央アジア以西への探検家
15 司馬遷 歴史家
16 王莽 帝位を纂奪した皇帝
17 班氏 歴史家
18 王充 懐疑主義の思想家
19 張陵 道教の開祖
20 張角 道教の開祖
21 曹操 軍師・物語の英雄
22 蔡エン(蔡文姫) 悲運の女性詩人
 





 三国時代から隋・唐まで 220年−907年
ID
人   物記 事 ・ 備 考
23
諸葛亮―伝説的な軍師・名宰相
24
石崇―退廃的貴族
25
王衍―清談に明けくれた廷臣
26
石勒―後趙の皇帝―奴隷から身を起こして後趙を建てた皇帝
27
王義之―中国最高の書家
28
鳩摩羅什―訳経僧
29
陶淵明―田園詩人
30
拓践珪(道武帝)―北魏皇帝になった遊牧民の部族長
31
崔浩―可汗に仕えた漢人官僚
32
武帝―梁王朝の創始者
33
煬帝―隋の二代皇帝
34
太宗―唐王朝の基礎を築いた名君
35
玄奘―西域を巡礼した訳経僧
36
則武天―中国史上唯一の女帝
37
高仙芝―唐で活躍した高句麗の武将
38
玄宗―開元の治 後半の頽廃
39
安禄山―安史の乱、反乱軍首領
40
李白―中国を代表する詩人謫仙人
41
杜甫―中国を代表する詩人詩聖
42
楊責妃 ―皇帝の寵姫
43
韓愈―文芸復興、散文詩
44
白居易―大衆的詩人
45
魚玄機―民妓で幼い頃から詩を書き、温庭?多くの詩人も評価
46
薛濤―詩人・官妓、高級官僚と付き合う
47
李商隠―一般官僚、秀逸の詩
48
李徳裕―後唐の宰相
49
黄巣―群盗・反乱軍首領          



907年−1368年
人口増加と自然災害(さらにそれらの問題に対処する官僚の能力の低下) にくわえて、節度使(地方軍司令官)の力の増大によって反乱があいつぎ、唐は滅亡した。中国はふたたび分裂し、多数の王国が興亡した。九六〇年に末がふたたび中国を統一すると、宋王朝のもとで都市が発達し、飲食店や売店や本屋が道沿いにならぶ、現在の都市生活と変わらない光景が現れた。しかし末は華北を失い、宮廷は南の杭州にのがれた。華北には非漢民族の帝国が次々と興隆し、とうとうモンゴル族が中国全体を征服して一二七九年に国号を元とあらためた。過去の分裂期と同様に、この時期に学問や芸術が勢いよく花開いた。末代の文化のもっとも輝かしい功績は、新儒学思想の誕生である。この思想は儒教に仏教を融合させた革新的な学問だったが、明と活の時代には形骸化し、国家の定める正統な学問となって、融通性を失った。



 五代十国時代から元まで  907年〜1368
ID
人   物記 事 ・ 備 考
49耶律阿保機―契丹族首領・遼の建国者
50李存勗―突厥系の晉王・後唐皇帝
51趙匡胤―宋の太祖
52柳宗元ー中唐詩人
53王安石―改革を断行した官僚
54沈括―科学史家
55蘇軾(蘇東坡)―天才文学者
56方臘―マニ教徒の反乱指導者
57徽宗―宋の文化人皇帝
58李清照―宋の女性詩人
59岳飛―愛国の英雄
60張擇端―宋代の画家
61朱薫(朱子)―朱子学の創始者
62馬遠―宮廷画家
63丘処機(丘長春)―全真教指導者
64元好問―詩人・歴史家・金の歴史の保存者
65クビライ・カアン―中国皇帝となった遊牧民の君主
66関漢卿―中国演劇の創始者
67パスパ―チベット仏教の指導者・パスパ文字の制作者
68トクト―元王朝最後の名宰相          




モンゴル族が建てた元王朝は、あいつぐ農民反乱によって中国の支配権を失い、ついに極貧の農民家族に生まれたカリスマ的な反乱指導者が明を建国し、初代皇帝となった。明は意識して 「漢人」王朝たらんとした。モンゴル族による支配の痕跡をすべてぬぐいさるために、唐の栄光に立ち戻ろうとしたのである。しかし、北方諸民族はあいかわらず脅威でありつづけたし、明もまた、政治に関心をもたない皇帝のもとで徐々に衰退し、政権の腐敗を正すことができないまま、農民反乱によって終焉を迎える。明は漢人の農民反乱によって滅ぼされるが、この反乱は力においてまさる満州族の軍隊に鎮圧された。満州族は一六四四年に北京に侵攻し、最後の帝国、活を建国した。


 明から中華人民共和国まで 1368年〜現代19人

清は建国当初こそ繁栄したが、一九世紀になると、自然災害と農民反乱というおなじみの悪循環におちいり、さらにそこへ砲艦をひきつれた西洋人が侵攻し、混乱に拍車をかけた。活が滅ぶと、中華民国が成立した。しかし、国土はふたたび軍閥によって分割され、中央政府は有名無実になった。国民党と中国共産党が支配権をめぐって争っているあいだに、日本は一九三七年に中国に侵入した。一九四九年、国民党は台湾に逃亡し、北京で中華人民共和国の建国が宣言された。


ID
人   物記 事 ・ 備 考
69洪武帝―明の太祖
70鄭和―東アフリカまで航海した提督
71王陽明―陽明学の創始者
72海瑞―清廉な官僚
73李時珍―医師・博物学者
74張居正―明の宰相・経済改革者
75ヌルハチ―満州族の国家の創始者
76徐霞客―旅行家・地理学者
77魏忠賢―明の宦官
78馮夢龍―人気作家
79張献忠―反乱軍指導者
80呉三桂―清にねがえった将軍
81顧炎武―明の遺臣・学者・社会思想家
82朱トウ―烏と魚を描いた風狂画家
83蒲松齢―幽霊譚の作家
84康照帝―清の最盛期を作った皇帝
85曾静―反清的知識人
86曹雪芹―中国最高の小説家
87乾隆帝―清王朝の最盛期を築いた皇帝
88へシェン―腐敗した清の官僚
89林則徐―英國のアへン密貿易を禁止した官僚
90汪端―清代の女性詩人
91僧格林泌―モンゴル族最後の猛将
92洪秀全―太平天国の乱の指導者
93西太后―清王朝の最期を彩る女帝
94秋瑾―革命に殉じた女性解放運動のヒロイン
95孫文―理想主義の革命家・中華民国創立者
96魯迅―二〇世紀最大の中国人作家
97蒋介石―国民党の指導者
98胡適―文学革命のリーダー
99毛沢東ー共産主義革命家
100ケ小平―毛沢東後の中国を改革した指導者
明から中華人民共和国まで 1368年〜現代







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4.五胡十六国


晉(晉、しん、265年 - 420年)は、中国の王朝の一つ。司馬炎が魏最後の元帝から禅譲を受けて建国した。280年に呉を滅ぼして三国時代を終焉させる。通常は、匈奴(前趙)に華北を奪われ一旦滅亡し、南遷した317年以前を西晋、以後を東晋と呼び分けているが、西晋、東晋もとも単に、晋、晋朝を称していた。東晋時代の華北は五胡十六国時代とも称される。首都は洛陽、西晋末期に長安に遷った後、南遷後の首都は建業。宋により滅ぼされた。


 西暦301年に始まった帝位継承紛争「八王の乱」によって西晋王朝が崩壊し始めたのを契機に、当時、中国の内外に多数居住していた異民族が華北に侵入した。彼らは略奪を行って引き上げるという遊牧民的な行動の代わりに中華領域内に定住して数多くの国を建国した。国の数がおおよそ十六であり、この時代を担った異民族が五族(匈奴、鮮卑、羯、羌、氏)であったことからこの名がある。


晋   265〜420

西晋 265年 - 316年

東晋 316〜420


五胡十六国

 一般に、439年、北魏が北涼を滅ぼして華北を統一した時点でこの時代は終わり、南北朝時代に移るとされる。おおまかにいって、華北主要部では、東部と西部に確立した二つの王朝が対立する構図が、王朝が交代しながら続いた。現在の甘粛省付近では、いずれも「涼」と自称する五つの王朝が興亡した。江南はほぼ一貫して西晋王朝の衣鉢を継ぐ東晋王朝が存続した。こうした大勢力の間でいくつかの小国が勃興し滅亡していった。



ID詩人名  / 事項よみかな作品名


78元帝(東晋)276年 〜322年

元帝(げんてい)は、東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬?、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王司馬渾がいる。別詩(別罷花枝不共攀) 

79王羲之      おうぎし303年 - 361年

東晋の政治家・書家。字は逸少。右軍将軍となったことから世に王右軍とも呼ばれる。本籍は琅邪郡臨沂(現在の山東省)。魏晋南北朝時代を代表する門閥貴族、琅邪王氏の出身である。行書・楷書・草書において古今に冠絶、その子王献之と共に二王と呼ばれる。「蘭亭序」「楽毅論」「十七帖」などの作がある。「蘭亭序」(353)「楽毅論」「十七帖」


80陶淵明(陶潜)      とうえんめい365〜427

六朝時代の東晋の詩人。江西の人。名は潜。淵明は字(あざな)。一説に名は淵明、字は元亮(げんりょう)。官職に就いたが、束縛を嫌い、彭沢(ほうたく)県の県令を最後に「帰去来辞(ききょらいのじ)」を作って官を辞し、故郷へ戻った。自然を愛する田園生活を送り、すぐれた詩を残した。詩では「飲酒」、文では「桃花源記」が有名。五柳先生。

「飲酒」  「桃花源記」  五柳先生。51.責子 陶淵明


81僧肇(そうじょう)(374/384―414)

魏晋時代,東晋の僧。鳩摩羅什の門下で〈解空(げくう)第一〉と称され,竜樹の空の思想を仏教の基礎としようとした。著書《肇論》4巻は魏晋仏教の代表的著作。 






南北朝時代 439〜589

 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指す。


南北朝



北魏





西魏

東魏



北周

北斉



隋(ずい、581年 - 618年)

この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡した。こちらを南朝と呼ぶ。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼ぶ。この時期、江南の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となった。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍した。


 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつあった。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂した。東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一する。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位についた。589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一した。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼ぶが、これに隋を加える説もある。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためである。


ID詩人名  / 事項よみかな作品名  永明体


91謝霊運     しゃれいうん385〜433

南朝の宋の詩人。陽夏(河南省)の人。永嘉太守・侍中などを歴任。のち、反逆を疑われ、広州で処刑された。江南の自然美を精緻(せいち)な表現によって山水詩にうたった。 東陽谿中贈答 


92顔 延之(がん えんし)384年- 456年

、)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 


93鮑照    ほうしょう412頃-466

六朝時代、宋の詩人。字(あざな)は明遠。元嘉年間の三大詩人の一人として謝霊運・顔延之と併称された。擬行路難, 代出自薊北門行



竟陵八友:南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人 (@蕭衍・A沈約・B謝?・C王融・D蕭?・E范雲・F任ム・G陸?)


94B謝眺    (しゃちょう)464年- 499

南北朝時代、南斉の詩人。現存する詩は200首余り、その内容は代表作とされる山水詩のほか、花鳥風月や器物を詠じた詠物詩、友人・同僚との唱和・離別の詩、楽府詩などが大半を占める。竟陵八友のひとり

謝眺詩 @玉階怨 A王孫遊 B金谷聚 C同王主薄有所思 D遊東田


95鮑令暉    ほうれいこん生卒年不詳。

南朝宋女詩人。東海(現在山東?城)の人。鮑照の妹。鮑令暉も詩人として知られる。 略歴いわゆる寒門の貧しい家柄に生まれる。元嘉 ( 南朝宋)ごろに臨川王劉義慶に認められて国侍郎、太学博士、中書舎人となる。荊州刺史の臨海王劉子?のもとで前軍参軍の職につく。劉子?の反乱で乱戦のうちに殺害された 鍾エ《詩品》??是南齊人,但從鮑照的《請假?》中講到僅有的一個妹妹死去等語看來,?似乎在宋孝武帝時就已去世。其詩見於《玉台新詠》。今人錢仲聯《鮑參軍集注》附有鮑令暉詩。  


96F任 ム     (じん ぼう)460年- 508年

中国南北朝時代の文学者。字は彦昇。小字は阿堆。楽安博昌(現山東省寿光市)の人。南斉の竟陵王蕭子良のもとに集まった文人「竟陵八友」の1人。散文の分野で高く評価され、南斉・梁の時代に多くの表奏を手がけた。同じ八友の1人で、詩にすぐれた沈約に対し、「任筆沈詩」と称される。著作に『述異記』『文章縁起』(偽作説もあり)。 


97A沈約      (しんやく)441年- 513年

南朝を代表する文学者、政治家。呉興武康(現在の浙江省武康県)の人。字は休文。沈氏は元来軍事で頭角を現した江南の豪族であるが、沈約自身は幼いときに父を孝武帝に殺されたこともあり、学問に精励し学識を蓄え、宋・斉・梁の3朝に仕えた。南斉の竟陵王蕭子良の招きに応じ、その文学サロンで重きをなし、「竟陵八友」の一人に数えられた。その後蕭衍(後の梁の武帝)の挙兵に協力し、梁が建てられると尚書令に任ぜられ、建昌県侯に封ぜられた。晩年は武帝の不興をこうむり、憂愁のうちに死去したという。二十一史・宋書


98C王融      おうゆう467年- 493年

南北朝時代、南斉の政治家・文学者。字は元長。琅邪臨沂(現山東省臨沂市)の人。六朝時代を代表する名門貴族、琅邪王氏の出身。名門の出身に加えて文才にも優れ、南斉の皇族、竟陵王蕭子良の西邸に集った文人「竟陵八友」の1人に数えられ、同じく八友の仲間である沈約・謝?らとともに「永明体」と呼ばれる詩風を生み出した。三月三日曲水詩序


99蘇小小       そしょうしょう未詳

錢唐蘇小:南斉(南齊)時代の銭塘の名妓。才色兼備の誉れが高かった。銭塘の蘇小小。 ・銭唐:現・浙江省杭州市。「銭塘」のこと。唐代に「唐」字を避けて「錢唐」を「銭塘」とした。歌一首


100孔稚珪       こうちけい447〜501

 会稽郡山陰の出身。字は徳璋。学問・詩文に優れ、蕭道成に文才を認められて起室参軍とされ、永明年間に王植の『晋律』改修にも参与した。廷尉、御史中丞と進み、493年の鬱林王即位に際して王融を告発して自殺させ、明帝より南郡太守とされ、東昏侯のときに太子・事・散騎常侍に至った。 


101刑邵        (けいしょう)496〜561

北朝斉文学家。字は子才。河?□(今の河北任丘北)人。思公子(綺羅日減帶)


102斛律金(こくりつきん)488年- 567年

中国の東魏・北斉の軍人。騎射を得意とし、用兵は匈奴の法を学び、塵を見て敵軍の数を知り、地を嗅いで敵軍の遠近を知ったと言われる。

?勒歌 五噫歌


103鍾エ         (しょうえい) 469〜518

  字は仲偉。潁川郡長社の人。斉の永明年間に国子生となる。秀才に挙げられ、王国侍郎に任ぜられた。のち安国令となった。梁に入って、晋安王・蕭綱の記室をつとめた。漢魏以来の五言詩の優劣を論じ、『詩評』にまとめた。 『詩品』


104@蕭衍(しょうえん)梁武帝

464〜502〜549

南朝梁の初代皇帝。蕭衍(しょうえん)南蘭陵(江蘇省)の蕭氏の一門であり、南斉宗室の支族に当たる。父の順之は南斉の高帝蕭道成の族弟であり、丹陽の尹であった。若い頃より文武両面において注目され、南斉時代で文化の中心であった竟陵王蕭子良の西邸にも出入りし、沈約らと共に八友の一人に数えられた。

河中之水歌   遊女曲(氛?蘭麝體芳滑)   子夜歌(朝日照綺錢)


105E范雲     はんうん 451年- 503

南朝の梁を代表する文人。字は彦龍。451年(元嘉8年)、南郷舞陽(現在の河南省沁陽)で生まれる。斉及び梁に仕え、竟陵王蕭子良八友のひとりに数えられ、蕭衍を沈約と共に助けた。永明10年(492年)、蕭?と共に北魏に派遣された際には孝文帝の称賞を受けている。梁では尚書左僕射(502年からは尚書右僕射)に任じられ、その清麗な風格の詩風は当時から高い評価を受けた。503年(天監2年)没。

別詩  「贈張徐州稷」    「古意贈王中書」



106何遜       (かそん)未詳〜518

中国南北朝時代の文学者。東海?の人。字は仲言。曾祖父は何承天。幼少より文才に優れ、8歳で詩を作り、20歳の時、州から秀才に選ばれた。南斉の永明年間に、当時の文壇の重鎮であった范雲に文才を認められ、年齢を超えた交際を結ぶ。現存する詩は110首あまり。生涯の大半を地方の幕僚として勤めたことから、友人や同僚たちとの間の応酬・離別の詩や行旅を主題とする詩が多くを占める。その詩風は、寒門の出身者であるが故の、官途の不遇から発せられた心情表現がしばしば見られることが特徴である。その一方で、詩中における自然描写は、精巧であるとともに、豊かな抒情性をたたえており、謝?とならび、唐詩の先駆とみなされている。 


107王籍        おうせき 502〜519

南梁(502〜557)(おうせき 502〜519) 南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名です。

入若耶渓


108G陸垂        (りくすい) 

  

109D蕭鎮        (しょうちん) 

  

110萸信           (ゆしん) 513年-581年

は、中国南北朝時代の文学者。字は子山。南陽郡新野の人。?肩吾の子。南朝の梁に生まれ、前半生は皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍した。侯景の乱後の後半生は、やむなく北朝の北周に身を置くことになり、代表作「哀江南賦」をはじめ、江南を追慕する哀切な内容の作品を残した。

寄王琳 秋夜望単飛雁


111王褒          (おうほう) 513〜576

琅邪郡臨沂の出身。字は子淵。梁の武帝に仕えて清官を歴任し、蕭子雲に草書・隷書を学んで師と共に令名があり、顧野王とも二絶と併称され、元帝が即位すると 吏部尚書・右僕射に進んだ。 


112徐 陵          (じょりょう) 507年- 583年

中国南北朝時代、梁・陳の文学者・政治家。字は孝穆。本籍地は東海郡?県(現山東省)。梁では父親の徐?、?肩吾・?信父子とともに、皇太子蕭綱(後の簡文帝)配下の文人として活躍し、「徐?体」という艶麗な詩風を確立した。侯景の乱の混乱により、一時期北朝の東魏・北斉に抑留されたが、後に江南に帰り、陳でも文壇の大御所的存在として「一代の文宗」と称えられた。詩集『玉台新詠』は、皇太子蕭綱の命により徐陵が編纂したとされ、その序文は六朝時代の駢文の傑作として名高い。『玉台新詠』





隋 隋(ずい、581年 - 618年)中国の王朝。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した(西晋の実質的な統一期間は30年間もないため、黄巾の乱によって中国が分裂時代に入ってから数えれば400年ぶりとなる)。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(長安、現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。


ID詩人名  / 事項よみかな作品名


113陰鏗          (いんけん)

(?〜?)

  字は子堅。武威郡姑臧の人。はじめ梁の湘東王の法曹参軍となった。陳の天嘉年間に、始興王の中録事参軍となり、のちに晋陵太守・員外散騎常侍に上った。詩人として何遜と並び称された。『陰常侍詩集』。  


114楊 素         (よう そ ? - 606年)

 中国の隋の政治家・軍人。隋の上柱国、司徒、楚景武公に上った。字は処道(正字は處道)。弘農郡華陰県(陝西省渭南市)の出身である。隋の帝室である楊氏(鮮卑普六茹部)とは別系統にあたる。

楊素は、楊敷の子として生まれた。楊敷は、北周の天和年間に汾州刺史となり、北斉の将軍の段韶の攻撃を受けて捕らえられた。北斉は楊敷を任用しようとしたが、楊敷は屈することなく?で没した。 

115薛道衡       (せつどうこう) 540年- 609年

南北朝時代および隋の文学者。北朝および隋を代表する文学者で「一代の文宗」と称えられたが、煬帝にその文才をねたまれ処刑された。0

     科挙を施行


116観徳王・楊雄(ようゆう) 542年- 612年

楊雄(よう ゆう、)は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。文帝楊堅の族子にあたる。 



―初唐・盛唐・中唐・晩唐―


Toho 杜甫とほについて たとえば、杜甫について、研究していますが、その詩が好きかと聞かれれば「素晴らしいけど好きではない」。李白も同様で、王維が一番好きです。その次は孟浩然、という具合です。


 杜甫の詩人としての矜持は尊敬しかありません。また、詩を読んでいくのに、番号を振り当てて、順に読み、それを何度も繰り返しましたが、杜甫の800首ぐらいを10回読むと10回とも違った感動を覚えます。また途中途中前回と違った感覚を感じます。こういった読むたび感動の喜びを常に与えてくれる詩人は杜甫だけです。


Oui 王維おういについて

 王維の詩は心安らぎます。詩が頭の中で絵として残ってくれます。書を書きたくならせてくれる詩人です。詩の紹介のサンプルページでは王維晩年の「終南別業」を取り上げています。

 今までの紹介文献とは少し違うかもしれませんが、王維が好きになる人が多くなってくれると嬉しいのですが。李白は感覚で瞬時に詩を書き、王維は感覚で出来上がったものを理詰めで直し書き上げる。杜甫は、最初から詩理論が直感的にでて、幾何学の公式で解き、自己の矜持に照らして完璧に仕上げる。


● 三詩人の詩について■ この三詩人、全く違う人生観、何から、何まで全て異なっています。ほぼ同時期に生まれ、安史の乱を前後してほぼ同時期にこの世を去った、見事なまでのこの事象、。偶然なのか、必然なのか、地球に生物が誕生したのと同様の驚くべきことなのです。


■その作品の残し方伝わり方も、彼らの人生とまったく同様に違っていて面白い。杜甫は臨終でも詩を残し、きちんと整理しますが、死後50年近く経過したのちにやっと認められます。李白の詩は生前から有名で、臨終で地方長官に詩を託したので、かなり正確に残りました。王維は弟を可愛がり、王維自身も人物的に好かれるタイプといえます。死後早い時期に詩集にまとめ朝廷に献上されています。


Rihaku 李白りはくについて■李白は、若い時から任侠に足を染めたり、道教のお坊さんの資格を取ったり、役人登用試験に推薦されても断って、山に入って、小鳥を飼いならしたりしています。晩年近くになる、李白は皇帝の妹の推薦で新しく作られた文書長官の部所員となります。あれほど嫌がってあれほどなりたがっていた役人になりますが、2年足らずで首になります。その理由も李白らしい。

 朝廷の裏方の執事、中国では昔から男性で去勢を施したものたちを、宦官といい、当時その中の一番偉かった人物「高力士」を皇帝の前で辱めたのです。この高力士は陰険な人物で、それまでも数々の優秀な官僚、宰相を陥れています。そういう人物を新人の李白が辱めたというのは痛快ですが、俗人にほど遠い「仙人」のような存在感、首になるのも仕方のないことです。

 でもこのうわさを聞きつけた杜甫は李白との出会いに成功します。杜甫はこの天才詩人李白の詩にカルチャーショックを受けます。一緒に旅をし、尊敬し、結局李白の詩の良いところをすべて吸収します。杜甫の詩の作法は、格段に進歩します。杜甫は王維も尊敬しており、やっとかなった官僚を左遷され、悩んだときに王維に相談し、その後を行動を決定づけます。





● 初唐期の詩人たち

 前代の六朝時代の余風を受け、繊細で華麗な詩風を身上とする修辞主義的な詩風が主流である。宮廷の詩壇における皇帝との唱和詩がこの時期の中心的作品となっている。

 代表的詩人には「初唐の四傑」と呼ばれる、@王勃・A楊炯・B盧照鄰・C駱賓王のほか、近体詩の型式を完成させた武則天期の沈栓期・宋之問などがいる。さらにこうした六朝の遺風を批判し、詩歌の復古を提唱して次代の盛唐の先駆的存在となった陳子昂が現れた。



ID 詩人名よみかな  /  作品名


151魏徴ぎちょう580年 - 643年

唐初の政治家・学者。癇癪を起こした太宗に直諫(じかに諫言)することで有名であり、魏徴死亡時太宗は非常に哀しんだという。曲城(山東省)の人。字(あざな)は玄成。太宗に召し出され、節を曲げぬ直言で知られる。「隋書(ずいしょ)」「群書治要」などの編纂(へんさん)にも功があった。述懐


152上官儀じょうかんぎ608?年- 665年

文才があり、五言詩をもっとも得意とし、多くは命を受けて作り献上した。詞句は婉麗にしてたくみで整っており、士大夫に模倣されて上官体と称された。皇后であった則天武后を廃そうと高宗に建議したことにより、則天武后(武則天)の怨みを買い、後に梁王・李忠の「謀反」事件に関連させられ、獄死した。入朝洛堤歩月


153王勃  @ おうぼつ650年- 676年

王勃の作品には、南朝の遺風を残しながら、盛唐の詩を予感させる新鮮自由な発想が見られる。「初唐の四傑」の一人。幼くして神童の誉れ高く、664年に朝散郎となり、ついで高宗の子の沛王・李賢の侍読となってその寵を受けたが、諸王の闘鶏を難じた「檄英王鷄文」を書いて出仕を差し止められ、剣南(四川省)に左遷された。?州(河南省霊宝市)の参軍となったときに罪を犯した官奴を匿いきれなくて殺し、除名処分にあった。

 この事件に連座して交趾の令に左遷された父の王福時を訪ねる途中、南海を航行する船から転落して溺死した。滕王閣, 送杜少府之任蜀州唐


154盧照鄰  Bろしょうりん生没年未詳。

 范陽(河北省)の出身。幼少より曹憲・王義方に従って経史と小学を学び、詩文に巧みであった。初めはケ王府の文書の処理係である典籤となり、王(唐高祖の子・元裕)に重用された。 のち新都(四川省)の尉となったが病のために職を辞し、河南省具茨の山麓に移住した。病が重くなって、ついに頴水に身を投じて死んだ。 その詩は厭世的で悲しみいたむ作が多い。長安の繁栄のさまを詠じた「長安古意」が最もよく知られ、『唐詩選』にも収められている。著に『盧昇之集』7巻と『幽憂子』3巻がある。長安古意


155駱賓王   Cらくひんおう640?- 684?

「初唐の四傑」の一人。7歳からよく詩を賦し、成長してからは五言律詩にその妙を得た。特にその「帝京篇」は古今の絶唱とされる。好んで数字を用いて対句を作るので「算博士」の俗称がある。(浙江省)の出身。初めから落魄し、好んで博徒と交わり、性格は傲慢・剛直。高宗の末年に長安主簿となり、ついで武后の時に数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷される。

 出世の望みを失い、官職を棄てて去った。684年に李敬業が兵を起こすと、その府属となり敬業のために檄文を起草して武后を誹謗、その罪を天下に伝えた。易水送別, 霊隠寺 , 詠鵞


156劉廷芝/劉希夷りゅうていし・りゅうきい651年-679年

劉 希夷(りゅう きい、651年(永徽2年) -679年(調露元年))は中国唐代の詩人。字は庭芝、廷芝。一説に名が庭芝で字が希夷ともいわれる。汝州(河南省汝州市)の出身。幼くして父を失い、母と共に外祖父のもとに身を寄せ20歳頃まで過ごした。容姿はすぐれており、物事にこだわらない性格なので素行が悪かった。酒と音楽を好み、琵琶の名手であった。675年(上元2年)進士となるが仕官せずに各地を遊覧した。「年年歳歳花相似歳歳年年人不同」で有名な詩「代悲白頭翁」が代表作。代悲白頭翁   秋風引  楊柳枝詞  石頭城  公子行


157楊炯  Aようけい生年不詳−692

(ようけい、生年不詳−692年)は中国・唐代初期の詩人。字は不詳。王勃・盧照鄰・駱賓王とともに「初唐の四傑」と称せられる.華陰(陝西省)の出身。幼時から慧敏でよく文章を作り、661年に神童に挙げられ校書郎を授けられた。681年、崇文館学士になった。則天武后の時代に梓州司法参軍に左遷されて、のち盈川の令となった。

著に『盈川集』がある従軍行 ; 夜送趙縦


158陳子昴ちんすこう661- 702

六朝期の華美さを脱して漢代の建安文学にみられるような堅固さを理想とする詩を作り、盛唐の質実な詩の礎を築いた。登幽州臺歌


159上官婉兒じょうかんえんじ664- 710

上官儀の孫で才媛。後に、政変のため殺された。綵書怨


160宋之問そうしもん652〜712

宋 之問(そうしもん、656年?−712年あるいは713年)は中国初唐の詩人。字は延清。?州弘農(現河南省、『旧唐書』より)あるいは汾州(現山西省、『新唐書』より)の人。沈?期とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。

 汾州出身。字は延清。科挙進士科に及第して武后に認められ、張易之と結んでいたために中宗復辟で瀧州(広東羅定)に流されたが、洛陽に潜行して張仲之に庇護され、仲之の武三思暗殺を密告して赦免・登用された。太平公主に与し、横暴・驕慢として越州長史に遷されたが、以後も素行を修めず欽州・桂州に流され、玄宗に自殺を命じられた。 娘婿の劉希夷に、詩(代悲白頭翁)の“年年歳歳花相似たり”の句の譲渡を求めて拒まれ、人を遣って土嚢で圧殺させたという。下嵩山歌(下山歌)


161沈栓期しんせんき656?- 716?

宋之問とともに則天武后の宮廷詩人として活躍し、「沈宋」と併称され、近体詩の律詩の詩型を確立した。

  字は雲卿。相州内黄の人。上元二年(675)、進士に及第した。協律郎・考功郎中・給事中を歴任した。張易之の庇護を受けたが、武周朝が倒れて張易之が殺されると、賄賂を取った罪で驩州に流された。その後、呼び戻されて起居郎・修文館直学士となり、中宗にとりいって、中書舎人・太子少・事にいたった。宋之問とともに、「沈宋」と併称される。 ?山  臨高臺













・ 755年11月初から763年にかけて、范陽・北方の辺境地域(現北京周辺)の三つの節度使を兼任する安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱である。


 反乱した安禄山の軍に対する唐の国軍の大部分はほとんどが経験の少ない傭兵で、全く刃が立たず、安禄山率いる反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の東都(中国の中心と考えられていた)洛陽を陥落させた。


 安禄山は皇帝(聖武)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始し6月長安の手前最後の砦である潼関が破られる。玄宗は蜀(現在の四川省)へと逃れる。その途上の馬嵬で、楊国忠、息子の楊暄・楊出・楊曉・楊晞兄弟、楊貴妃も絞殺された。


 玄宗は退位し、皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位した。

安反乱軍は常に内紛を起こし、安禄山は息子慶緒に殺され、さらに史思明に殺害され権力は変わっていく。この反乱勢力の分裂は各地の叛乱を呼び起こす。しかし、一つの力にまとまらないものはやがて他国に援軍を求めた唐の国軍に制圧されることになる。




 ■ 安禄山の叛乱        755年 11月〜  755年、11月、「逆賊・楊国忠を討て」と勅命を受けたと偽り、息子の安慶緒、高尚、厳荘、孫孝哲、阿史那承慶らと范陽で反乱を起こす。15万人の大軍を率いて夜半に洛陽への進軍する。太原、河北の諸郡は全て降伏させた。


12月、安禄山の軍は黄河を渡り、霊昌郡、陳留郡、螢陽郡を落として、洛陽を陥落させた。


叛乱軍の侵攻

 唐軍を率いて東進してきた高仙芝は封常清とともに潼関に退却した。玄宗はこれを退却罪とし処刑し、哥舒翰が潼関の守りに赴任させた。また、河北において、常山太守の顔杲卿と平原太守顔真卿が唐のために決起したため、叛乱軍は潼関攻撃を止め、河北へと引き返すところへ追いつめられた。そんな中で、安禄山は至徳元載(756年)正月、洛陽で雄武皇帝に即位し国号を燕とした。

 史思明と蔡希徳が常山を陥落させ、河北の奪還に成功した。しかし、唐側の郭子儀と李光弼によって、史思明が敗北し、さらに顔真卿が激しい抵抗を重ね、再び河北の情勢は危うくなる。再度、史思明が郭子儀と李光弼に敗北したことにより、河北の十数郡が唐に奪回される。南方も唐側の張巡らの活躍によって、配下の尹士奇や令狐潮の進軍を止められてしまう。

 苦境に立たされた安禄山であったが、唐側に内部抗争がおこる。

 潼関を守る哥舒翰と楊国忠が不仲となり、哥舒翰を無理に潼関から出撃させる。しかし、叛乱軍に全滅させられるのである。哥舒翰も降伏、監禁されることになる。


 潼関が落ちると、玄宗は長安を捨てて蜀の地へ逃亡し、途中で楊国忠は唐の兵士に殺される。孫孝哲、張通儒、安守忠、田乾真に長安、関中を治めさせた。陳希烈、張均、張汨らは叛乱軍に降伏し、王維は捕らえられ、洛陽に連行された。長安、洛陽は、大虐殺を行ったので長安洛陽での反抗反撃がなくなり略奪の限りを尽くし、悲惨な状況になる。潼関の勝利に甘んじて唐国軍をそれ以上追わなかった。


 唐側は態勢を立て直すのに成功した。関中の豪族たちが唐側についた。また、河北では顔真卿が抵抗を続け、南では張巡の守る雍丘を陥落できない状況が続いていた。

 唐の皇太子李亨が粛宗として、霊武で即位、郭子儀が軍を率いて加わったた。唐軍が勢力回復するかと思われたが、房官が敗れ、郭子儀と李光弼が山西に退き、史思明が河北で勝利し、顔真卿も平原を放棄し河南に逃げる。


 至徳2年(757年)正月、安慶緒は安禄山殺害しこの乱は安慶緒によって続けられる。さらに、安慶緒は史思明に殺され、引き継がれたために安史の乱と呼ばれるようになり、史思明の子・史朝義が殺される763年まで続いていくことになった。この後も、安禄山の旧領はその配下であった3人が節度使として任命され、「河北三鎮」として唐に反抗的な態度を続けることになる。


 ■ 叛乱の背景       

 

1.府兵制の崩壊

 府兵制は、農耕土着風習の中国人にとってはかなりの重い負担であった。

 1)玄宗期には均田制自体が行き詰まり、農民が納税できなくなってきたこと。

 2)唐の領土があまりにも大きくなってしまって、土着農民の感覚からいうと、あまりにも遠い辺境に防人として送られるようになってきて、帰れる保障もなくなってきたことなどから逃げだす者も増加し、兵が思うように集まらなくなる。

 3)府兵制では外敵の動きに対して機敏に対処することが難しく、唐政府は常備軍を欲するようになり、府兵に変わって行軍が主に使用されるようになる。

 4)辺境でもそれは同じであり、羈縻州に対して都護府が設置され、その下には募兵による行軍で構成された。儀鳳年間(676年 - 678年)に軍制の改革が行われ、軍鎮と呼ばれる組織が辺境防衛に当たることになる。しかしこの軍鎮の統制が難しくなり、各地方で強力に軍鎮を統制する節度使が登場することになる。

 5)そして辺境の兵士たちは府兵制に於ける3年間のような短い期間ではなく、6年あるいはそれ以上の時を辺境で過ごすようになる。

 6)更に737年に辺境の軍鎮に半永住する長征健児制が出来る。これらの兵士たちは全て募兵であり、生活を国家からの支給で賄う職業軍人であった。

 7)ここに至り、府兵制は完全に消滅した。


 2.藩鎮の台頭

 藩鎮(はんちん)は中国唐から北宋代まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方軍と地方財政を担い統治した。節度使そのものを指すことも多い。

 府兵制が行き詰まった背景としては、元になった北魏の兵制では兵の担い手が部族制の下で集団生活を行う牧畜民で

あったのに対して、唐の府兵制は定住して田を耕作する農民が兵を兼ねたため、年間3ヶ月の軍事訓練が与える農業へ

の負担が大きく、また郷里と家族から離れて任務に就いたため戦闘に弱かった点が挙げられる。また、辺境への赴任は

白居易の『新豊折臂翁』[1]に代表される兵役拒否も生み、負担に耐えかねて逃亡(逃戸)し本籍地を離れた土地で貴族

に囲われ奴婢となる良民もいた。節度使は駐屯軍の将軍とその地方の財政官を兼ね、任地の税収を軍の糧秣と兵士の

雇用に使う制度で、初めは異民族対策として西北方面を中心に10の節度使が設けられた。

710年の河西節度使の設置を初めとして十の節度使が設置された。駐屯する兵士は、徴兵制たる府兵制によって集められるのではなく、募兵制である長征健児制によった。兵士は辺境で屯田を行い、国家から給料として絹と銅銭を支給された。

@安西 (亀茲): 天山南路の防衛、西突厥   A北庭(庭州): 天山北路   B河西 (涼州): 吐蕃と突厥の連携阻止 C朔方 (霊州) :突厥 C河東 (太原): 突厥 D范陽 (幽州): 奚・契丹  E平盧 (営州): 室韋・靺鞨  F隴右 (鄭州): 吐蕃  G剣南 (成都): 吐蕃・吐谷渾  H嶺南五府経略使 (広州) 夷猿  I節度使は安西・北庭・平盧の長城外節度使とそれ以外の長城内節度使に分けられる。

 長城外節度使には武人や蕃将(異民族出身の将軍)が就けられ、長城内節度使には中央から派遣された文官が付くのが当初の方針であり、節度使は宰相へと登るためのエリートコースとされていた。しかし玄宗に重用された宰相李林甫は政敵の出現を恐れて、宰相になれない蕃将を積極的に節度使として登用した。安禄山も玄宗の寵愛を受け、742年に平盧節度使となり、更に范陽・河東を兼任した。


 3.宰相と宦官 朝廷の問題

  (1)国軍ある南衙禁軍(府兵制による軍)に対して、北衙禁軍は皇帝の親衛軍であった。府兵制の崩壊に伴う南衙禁軍の縮小に対して、北衙禁軍が拡充の一途を辿った事は、律令体制の崩壊過程に、禁裏による政治への影響が問題点となる。

 (2)宦官が勢力を握ったのは、単に事務処理の範囲に限られていたものが宰相と結託し、高級官僚になった。則天武后の700年前後に数人であったが50年の間、つまり、玄宗になって1000人を超えるものになっていた。科挙試験を経ないでのし上がれる陰湿な人間関係が蔓延した。高力氏に至っては皇帝に上がる書類はすべて下見をした。

 (3)宰相、将軍もこれを最大限利用している。

 (4)李林甫、楊国忠らによる長期腐敗政治

 (5)玄宗の奢侈、偏見政治

 王朝・君主制の成立要件は二つあり、ルール・秩序があること、政治的・軍事的に、経済的に均衡が保たれいることの上に君臨できるものである。玄宗の712年から40年は唐王朝の前100年の蓄積の上に成り立っていたのであり、これがすべてに崩壊しているのを是正することができなかった事が、安禄山の乱は起こした要因である。


  220厳武   222崔國輔     224荊叔   225常建





 218 王昌齢   698〜763    こうせき 218


天宝14年(755年)、安禄山の乱の時に官を辞して故郷に帰るが、刺史の閭丘暁に憎まれて殺された。後に閭丘暁は、安禄山軍の侵攻に対し、唐側の張巡を救援しなかった罪で、唐の張鎬に杖殺された。この時、閭丘暁は「親がいるので、命を助けて欲しい」と言ったが、張鎬は、「王昌齢の親は誰に養ってもらえばいいのか?」と反論し、閭丘暁は押し黙ったと伝えられる。

当時は「詩家の天子」とも呼ばれ、高適・王之渙と交遊があった。七言絶句に特に優れ、辺塞詩に佳作が多いとされる。



 219 高適   702頃〜765    こうせき 219

高適

蜀に乱を避けた玄宗に随行し、永王の軍を討伐平定したが、蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の時に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。

50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて?州を通ったときに李白・杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された



 223 裴迪   生没年不詳     はいてき

裴迪

関中の出身。もう川において、王維と特に交友があった。「もう川集」には、王維の詩に続けて、彼の詩も載せている。また、杜甫とも交友があったことは杜甫の成都の詩にあるように蜀州刺史、もしくは尚書郎に任じられた。安史の乱期に、粛宗もとに駆けつけた事で官職をえた王維の影響を受けた詩人のひとりである。




 233 顔真卿   709〜785     がんしんけい

顔真卿(がん しんけい、 709年(景龍3年) - 785年(貞元元年))は、字は清臣、中国唐代の屈指の忠臣であり代表的な書家でもある。737年(開元25年)に進士及第し、742年(天宝元年)に文詞秀逸科に挙げられ、監察御史に昇進し、内外の諸官を歴任した。ただ、生来が剛直な性質であったが為に、権臣の楊国忠に疎んじられ、753年(天宝12載)に山東省左遷。


 安禄山の反乱軍の勢いが熾烈を極めた11月半ば、河北や山東の各地がその勢力下に帰属する中にあって、平原郡(山東省徳県)の太守に降格されていた顔真卿は、従兄で常山郡(河北省正定県)の太守であった顔杲卿と呼応して、安禄山軍侵攻をとどめた。その後、756年(至徳元載)に平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった粛宗の許に馳せ参じて、憲部尚書(刑部尚書)に任じられ、御史大夫をも加えられた。

しかし、長安に帰った後、再度、宦官勢力や宰相により、前線に送られ、そこで捕えられた。叛乱軍の李希烈は真卿を自らの部下にしようと再三説得したが顔真卿は拒み続けた。757唐国軍長安奪回に伴い李希烈は自殺刑された。後世、顔真卿の忠臣はその典型例として、靖献遺言に取り上げられている。顔真卿は尚書次官クラスでおわる。


 301 張謂   711 〜 780年頃     ちょうい

301張謂

張謂(ちょう い、711年? - ?)は、中国・唐の詩人。河内(河南省沁陽市)の出身。字は正言。初めは嵩山にこもって読書し、大志を抱いていた。天宝2年(743年)、進士に及第、節度使の幕下に加わって西域に従軍した。大暦初年(770年頃)には潭州(湖南省長沙市)刺史となり、大暦7年(772年)には礼部侍郎に至って、科挙の試験を司った。



 230 岑参   715 〜 770頃     しんじん

岑参(しん しん、715年 - 770年)は中国唐代の詩人。岑嘉州とも称する。詩人・高適と並び称される。

河南省南陽の出身。744年の進士。

 長く節度使の幕僚として西域にあったが、安禄山の乱があった756年に粛宗がいた鳳翔にはせ参じて、杜甫らの推挙により右補闕となり、その10月には粛宗に従って長安に赴く。759年に醵州の刺史となり、762年に太子中充・殿中侍御史となり関西節度判官を兼ね、765年に嘉州の刺史となった。768年、官を辞して故郷に帰ろうとしたが途中で反乱軍に阻まれて成都にとどまり、その地で没する。享年56。




 217 儲光義   707 〜 760年頃     ちょこうぎ

(ちょ こうぎ、707年 - 760年?)は中国唐代の詩人。

山東省・?州の出身。726年に進士となり、756年に監察御史となる。安禄山の乱の時に賊軍に官を授けられたため、乱後は嶺南に流され、その地で没する。

その詩は陶淵明を模範とし、質朴・古雅の趣をふくみ、田園詩に長じ王維・孟浩然・韋応物と肩を並べた。著に『儲光羲詩集』5巻の他、『正論・九経分義疎』があり、『唐詩選』に洛陽道などの絶句4首を収めている。




 231 賈 至   718 〜 772年       かし

(か し、718年 - 772年)は、中国・唐の詩人。洛陽(河南省)の出身。字は幼幾(ようき)。一説には幼隣(ようりん)。賈曾の子。

開元23年(735年)に進士に及第、さらに天宝10戴(751年)、明経(めいけい)に及第、起居舎人・知制誥に至った。安禄山の乱のときには、玄宗に従って蜀へ避難し、帝位を皇太子に譲る勅語を起草した。その後、一時罪によって岳州(湖南省岳陽)に流され、そこで李白に会い、酒宴に日を送ったこともある。その落ち、都に召還され、大暦5年(770年)には京兆尹兼御史大夫となり、右散騎常侍に至った。





 ■ タラス河畔の戦い    751年 7月-8月 タラス河畔の戦い

 唐の高仙之が大敗を喫したのであるが、この大敗前、タラス城に凱旋入場まで、高仙之は吐蕃を破り、この地にあった小国約30国をすべて破り、連戦勝利していた。(安史の乱前のアジアの勢力図参照))しかし、それを維持していく部隊編成はなく伸びきった軍隊は逆に孤立していくことになる。その背景には、吐蕃、キルギス、アッバース王朝の連合が成立していた。この連合を成立させたのは唐王朝の連戦連勝による略奪、横暴にある。侵略者に対する反逆は侵略者の地元に対する政策で違ってくる。高仙芝、率いる唐の3万人の軍は局地戦で、全面対決でも敗れた。命からがら逃げかえった兵は数千人まで減っていた。完全敗北である。

この戦いは単にイスラムとの戦いに敗れたということだけではない。唐の財政に貢献していた@西方からの税、Aシルクロード交易、が絶たれることを意味する。B唐の権威は地に落ち外敵からの侵略は漢の国土に及ぶようにある。


751年7月-8月

 中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で行われた戦闘。

 安西節度使として西域(東トルキスタン)に駐屯していた唐の将軍高仙芝が西のソグディアナ(西トルキスタン)に圧力をかけたため、シャーシュ(石国、現在のタシュケント)の王子は、シル川以西を支配するイスラム勢力に支援を要請。これに応じて747年にウマイヤ朝勢力をメルヴから追ってアッバース朝のホラーサーン総督となっていたアブー・ムスリムは、部下のズィヤード・イブン=サーリフを派遣。漢人・土着からなる3万の唐軍は、高仙芝に率いられタラス城に入る。

 ズィヤードの率いるアッバース朝軍と高仙芝率いる唐軍は、天山山脈西北麓のタラス河畔で衝突した。

 戦いの最中に唐軍に加わっていた天山北麓に遊牧する遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返ったために唐軍は壊滅し数千人を残すところとなり、高仙芝は配下の李嗣業がフェルガーナの軍を斬り破ったため、逃げ延びたものの、二万人を超える多くの兵士が捕虜となった。

 この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。唐の勢力はタリム盆地に限定されることとなり、まもなく起こった安史の乱により、唐の中央アジア支配後退は決定的になった。

 中国人の捕虜の中に製紙職人がいたとされ、サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。

 そして、この戦いの大敗は豊かなように見えた唐経済を弱体化させることになり、安禄山の叛乱の引き金になるものである。李林逋の絶頂期であった。(この翌年病死)



 ■ 高仙之        生年不詳〜755年 こうせんし

 高仙芝(こう せんし ? - 天宝14載(755年))は、高句麗系の唐の軍人。西域で活躍し、タラス河畔の戦いでアッバース朝のイスラム軍と交戦した。

 高仙士の「その時」]であるが、755年安禄山が反乱を起こし、栄王・李椀ら(玄宗の皇子)が討伐軍の元帥に、高仙芝が副元帥に任じられている。高仙芝は飛騎、礦騎などの軍に募兵を加えた、総勢数十万といわれる天武軍を率い、すでに討伐軍の将に任じられていた封常清に続くことになった。

 陜郡まで来たところで、安禄山側に洛陽を奪われて敗走してきた封常清と会う。そこで、封常清の進言に従い、潼関まで退くことを決める。太原倉を開いて全て兵士に渡し、残りを焼いて退却した。潼関への退却はひとまず成功し、安禄山軍は撤退した。その時、勢いづいている安禄山軍の猛攻で、唐軍は多くの兵が離散し、大虐殺、大量の武器、鎧、兵糧が放棄され、代償は大きかった。。


 しかし、再び監軍となっていた辺令誠が口出しするのを無視したため、封常清とともに、玄宗に対する讒言を受けてしまったと言われる。玄宗は両名に対する処刑命令を辺令誠に下した。

 洛陽の敗北により、封常清が処刑され、高仙芝も戻ってきたところを捕らえられた。高仙芝は「退却したのが罪なら、死も辞さないが、資財、兵糧を盗んだというならば冤罪だ」と言い、配下に向かって「私に罪があるなら、うち明けるがよい。そうでなければ『枉』(冤罪)と叫べ」と呼びかけると、軍中からの「枉!」という叫びが大地を揺るがした。封常清の死体に「君は私が抜擢し、私に代わって節度となった。今度は君と同じ所で死ぬ。天命なのだな!」と語り、処刑された。


将軍・李承光が代わりに指揮したが、新たに副元帥に任じられた哥舒翰は潼関の守備に失敗し、玄宗は長安を出奔する結果となった。









    張 均     生没年不詳       ちょうきん



張均(ちょう・きん、生没年不詳)は、唐代玄宗朝に仕えた政治家。名宰相とされる張説の長子であるが、安史の乱の際、安禄山に仕え、宰相に取り立てられたため、配流された。弟に張?、張?がいる。

文章詩句に長けていた。太子通事舍人から郎中、中書舍人にまで昇進した。開元17年(729年)には、左丞相である父の張説から京官(長安にいる官僚)の査定評価で「上の下」の評価をもらった。しかし、当時の人々は不公平とは考えなかったと伝えられる。

開元18年(730年)の父の死後、燕国公を襲名する。戸部侍郎、兵部侍郎を歴任するが、連座の罪により、饒州、蘇州の刺史に左遷される。長年かかって、また兵部侍郎に復帰した。自らを宰相の才と自負していたが、李林甫によって妨害されていたと伝えられる。天宝9載(750年)、刑部尚書となる。

天宝11載(752年)、李林甫の死後、陳希烈を頼り、昇進の道を歩もうとしたが、楊国忠によって陳希烈は解任される。さらに、弟の張?の罪に連座し、建安太守に左遷させられる。長安に戻った後、大理卿となるが、常に鬱々とした状態であったと伝えられる。天宝14載(755年)、安史の乱が勃発し、至徳元載(756年)、長安陥落時に安禄山に降伏し、中書令に任命された。[1]

至徳2載(757年)、唐軍の洛陽奪回時に陳希烈、張?、達奚cとともに、唐軍に降伏した。皆、死罪にあたった。しかし、房?が「張説の家が滅亡してしまう」と主張し苗晋卿に会い、取りなしを依頼した。粛宗は、張説に自分の誕生の時に助けられたことがあったため、張均の死罪を免じ、合浦に配流した。

建中初年に、太子少傅が贈られ、息子の張濛は徳宗に仕え、中書舍人に任じられた。



    達奚c  生年不詳 〜 757年    たつけいじゅん x達奚c


達奚c(たつけい・じゅん、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、降伏して安禄山に仕え、宰相に任じられた。唐の洛陽奪還の際、唐に降伏したが、処刑された。

河南の出身。開元年間の初期に、河南河北宣撫使の陸餘慶によって推薦され、名士として知られた。後に、天宝11載 752年)頃、礼部侍郎として、宰相の楊国忠の子である楊暄の科挙明経の不合格を息子の達奚撫を通じて伝えたところ、楊国忠の怒りを買い、楊暄を上位で合格させたことが「新唐書」に記されている。なお、楊暄はすぐに達奚cと同列となった。

天宝14載(755年)、河南尹として洛陽に赴任しており、安禄山が馬三千匹を六千の兵に持たせ、献上すると上奏した時、変事が起こることを心配し、止めることを上奏し、玄宗に採用された。同年、安史の乱が勃発し、封常清の配下として、李?、盧奕とともに洛陽の防御にあたった。しかし、攻めてきた安禄山軍によって、洛陽は陥落。封常清は敗走し、李?、盧奕、蒋清は処刑されたが、達奚cは安禄山に降伏した。

至徳元載(756年)、洛陽にて、大燕皇帝を自称した安禄山によって、侍中に任命される。至徳2載(757年)、安禄山の死後、引き続き、その子・安慶緒に、陳希烈、張均、張?らとともに仕えた。唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が洛陽から逃亡した時に、粛宗に降伏した。罪は斬刑にあたり、韋恆ら10名とともに腰斬された。



    陳希烈     生年不詳〜757年   ちんきれつ 

陳希烈(ちん・きれつ、生年不詳 - 至徳2載(757年))は唐代玄宗朝の政治家。宰相にまで任じられたが、安史の乱において安禄山側に降伏し、粛宗に自殺を命じられた。


宋州の出身。玄学(道教の学問)に詳しく、書は読んだこともなかった。開元年間に玄宗に玄学を講義し、秘書少監となった。開元19年(731年)には、張九齢に代って集賢院学士となり、工部侍郎まで昇進した。玄宗が撰述した書物は全て陳希烈によるものであった。天宝元年(742年)、符応にかこつけて玄宗に取り入り、崇玄館大学士となった。

天宝5載(746年)、李林甫は彼が玄宗の信任が厚く、柔和で御しやすいので宰相に引き立てた。陳希烈は李林甫の政策や謀略にただ同調し、署名するだけであったという。兵部尚書と左相を兼ねた。

天宝11載(752年)には楊国忠に同調し、王ヘの排除や李林甫との対立に協力する。李林甫の死後、天宝12載(753年)、楊国忠とともに李林甫への誣告を行い、許国公に任じられた。しかし、楊国忠が韋見素を引き立てて陳希烈を宰相から外し、太子太師にしたために恨みに思っていた。

そのため、天宝14載(755年)の安史の乱が勃発後、至徳元載(756年)の長安陥落時に、張均、張?、達奚cらとともに安禄山に降伏し、宰相に任じられた。

至徳2載(757年)、広平王・李俶や郭子儀ら唐側が安慶緒に勝利し、安慶緒が逃亡した時に、洛陽にいた燕(安禄山の王朝)側の百官を率いて素服で降伏し罪を請うた。罪は斬刑にあたったが、玄宗から寵愛されていたことにより自殺を命じられた。





楊国忠

唐の政権を握り、四十を超える使職を兼ね、自分につかない官僚は地方に出し、年功序列で出世させることで衆望を得て、人事を全て自分で決めた。天宝12載(753年)には、死去した李林甫を謀反の罪で誣告し、李林甫の親類や党を組んだものは流罪となった。その後、自らの権力集中に努め、天下の特に優れた才能を集めた。


宿敵・安禄山 [編集]この頃から安禄山との対立を強め、哥舒翰と手を組み、叛意ありとして排撃を強めはじめた。天宝13載(754年は、安禄山は楊国忠の意に反して上京し、玄宗に釈明をし、玄宗は安禄山を宰相に任命しようとしたが楊国忠の反対により沙汰止みとなった。さらに、吉温が安禄山につき、対立は深まり、安禄山は長安を脱出するように范楊へと帰った。


剣南留後・李?が南詔に大敗し、瘴癘(しょうれい)の地あったことも加わって、全滅し、李?も捕らえられた。楊国忠は敗北を隠し、さらに討伐軍を出し、死者は鮮于仲通の時と合わせて、20万人近くに及んだ。


天宝14載(755年)楊国忠は、吉温を合蒲に流すなど、敵対行動を止めなかった。安禄山は楊国忠に対して不満と敵意を抱き、ついに、謀反の意志を固め、安史の乱が勃発し、安禄山は楊国忠の排除を名目に武装蜂起した。楊国忠は得意げに、「安禄山の首は十日以内に届けられるでしょう」と語ったという。


しかし、洛陽が陥落し、討伐軍の指揮官である高仙芝と封常清は潼関まで退却したために処刑され、哥舒翰が潼関の唐軍を指揮することとなった。


至徳元載(756年)、哥舒翰は、戸部尚書で安禄山のいとこでもある安思順と楊国忠の腹心・杜乾運を謀殺した。また、謀反の責任は楊国忠にあるという世論の高まりもあり、両者は対立し、楊国忠は玄宗をたきつけ哥舒翰に出撃を強いた。哥舒翰は安禄山の軍に大敗し捕らえられ、潼関は陥落した。


栄光の末 [編集]楊国忠は剣南節度使を兼ねていたため、蜀地方への出奔を提言。この時、「安禄山の謀反の兆しを陛下が信じなかったからであり、宰相の責任ではない」と広言したと言われる。玄宗も同意し、太子・李亨、楊貴妃、楊一族、宦官の李輔国、高力士、韋見素、魏方進、陳玄礼らを連れ、密かに西方へと出発した。


馬嵬(ばかい)駅(陝西省興平市)に着いたところで、将士の疲労と飢餓は極限に達して前進を拒否。楊国忠への誅殺を決意した、龍武大将軍の陳玄礼は、李輔国を通して太子・李亨に決断をうながしたが、まだ、下らなかった。しかし、陳玄礼は「今天下崩離,萬乘震盪,豈不為楊國忠割??庶、朝野怨尤,以至此耶? 若不誅之以謝天下,何以塞四海之怨憤!」(今日、天下は崩れ落ち、天子の地位は揺らいでいる。楊国忠のために亡民は苦しみ、朝野に怨嗟が渦巻いているのではないか。もしこれを誅せずに天下に謝すれば、どのように四海の恨みと憤りを抑えられようか!)と述べた。たまたま、楊国忠が吐蕃の使者と会話していたため、兵士が「楊国忠が蛮人と謀反を起こそうとしているぞ!」と叫び、襲いかかり、西門内に逃げ入った楊国忠は、殺され、首は槍先に刺された。


御史大夫の魏方進は「なぜ、宰相を殺したのだ」と兵士をとがめたために殺され、楊国忠の子・楊暄、韓国夫人(?国夫人・楊貴妃の姉)も殺された。さらに兵士らは玄宗に迫って、楊貴妃の処刑も要求し、高力士の説得により、玄宗は泣く泣く楊貴妃を縊死させたという。楊国忠の残りの子も全て、前後して殺されている。




 ■ 安慶緒     生年不詳〜759年   あんけいしょ

安慶緒 生年不詳〜759 あんけいしょ

中国唐の軍人で、のち燕の第2代皇帝となった。


安禄山(聖武皇帝)の皇太子であったが、父帝が洛陽で病を患い、視力を失って人間不信に陥り、奢侈にもふけるようになってから孝を失った。父帝が慶緒の廃嫡にまで言及し始めたので、757年1月、唐軍とのにらみ合いが続く中で側近とともに父帝を殺害し、帝位を簒奪。しかし人望のない慶緒に、家臣の忠誠を繋ぎとめる事はもはや出来なかった。


757年10月、唐の粛宗に派遣された郭子儀らと回鶻の連合軍に長安と燕の都城・洛陽を奪われ、黄河を渡り業城(現在の河南省安陽市)に逃亡する。759年3月、有力部将・史思明の援軍によって唐の大軍勢を撃退したが、間もなく自身も彼に殺害された。


その後、史思明は安慶緒の軍勢を引継ぎ、本拠地・范陽(現在の河北省保定市や北京市一帯)に戻し、大燕皇帝を称するようになる。




 ■ 史思明     703 〜 761年    ししめい

史 思明  703 〜 761年  し しめい

唐中期の大規模な反乱であった安史の乱の指導者。


安禄山と同郷だったため親しい仲にあったという。また、自身も6ヶ国語に通じた教養に通じる人物であったため、次第に頭角を現していく。幽州節度使の部下であったときに戦功を挙げ、752年には安禄山の配下となった。


756年に安禄山が反乱を起こすと、河北で軍を率いて戦い、李光弼や顔真卿率いる唐軍と戦った。しかし、757年に安禄山が息子の安慶緒に殺されると安禄山の後を継いで燕王を称し、759年には安慶緒を殺害し、さらには長安に迫る勢いを見せたが、761年、養子を後継ぎにしようとしたために実子の史朝義によって殺された。


その後、史朝義も同年のうちに自殺したため、安史の乱は終息することとなった。





 ■ 高力士     684 〜 762年     こうせんし

中国唐代の宦官。唐の第6代皇帝玄宗の腹心として仕え、権勢を振るった。


安史の乱の際、玄宗について都の長安を脱出した。途中に禁軍が楊国忠を殺し、楊貴妃の死を求めたときに玄宗を説得し、楊貴妃を縊死させた。その後、蜀の地の成都まで同行して斉国公に封じられた。


しかし、粛宗(李亨、元の名を李?)が即位して玄宗は上皇として長安に帰還した。上元元年(760年)に、李輔国(粛宗期の実力者)が軍隊をもって玄宗を捕らえようとした時は、李輔国を叱りとばしてその危機を救ったが、陥れられて巫州に流された。宝応元年(762年)恩赦により帰還中、朗州にて玄宗の死を知り慟哭し死去した。


698年  少年時代に去勢しており、「力士」と名付けられた上で、「金剛」という名と少年とともに、嶺南討撃使の李千里により武則天に献上される。彼らはさとく、また容貌が整っていたので、武則天に喜ばれ、給事として左右に置かれた。


 武則天の時代、小さな過失から宮廷から追放され、宦官の高延福の養子となり、以降は高姓を名乗る。高延福が武三思の屋敷の出身であることから、武三思と交流を持つこととなった。1年ほどして、再び武則天に宮中に召された。身長は当時で6尺5寸あり、勤勉かつ綿密で、詔敕をうまく伝達し、宮韋丞に任命された。 その後、景龍年間に皇子時代の李隆基と結び、恩顧をもって接した。そのため、景龍4載(710年)の韋后討伐の政変の際は内部から協力し、朝散大夫、内給事に任じられた。玄宗の即位後も先天2年(713年)太平公主派の鎮圧に荷担し、その時の功績で銀青光祿大夫、行内侍同正員に任じられ、開元年間に入って右監門衛将軍、知内侍省事に昇進した。内外の様々なことを任され、高力士を含めた宦官の権勢は大きなものとなった。


 その後も玄宗の内廷の臣として、各地から来た上奏文は全て高力士が読んでから玄宗に進められ、小さいことは自分で決裁した。宮中から家に帰ることもほとんどなく、宮殿で睡眠をとっていた。玄宗は「高力士がいるからこそ、安心して眠れる」と語っていた。

玄宗の腹心として公事のみならず私事にも相談役として仕え、開元14年(726年)に張説が宇文融に弾劾されたときは、これがためにとりなした。

730年 、政敵であり、その傲慢さにより多くの問題を引き起こしていた王毛仲の排除を玄宗に進言した。開元19年(731年)に王毛仲は左遷され、その上で自殺を命じられている。なお、宇文融、李林甫、李適之、蓋嘉運、韋堅、楊慎矜、王ヘ、楊国忠、安禄山、安思順、高仙芝らは、高力士と結んだことにより才覚が認められ、高位に抜擢された。

738年  皇太子李瑛の廃嫡及び死後、新たな皇太子選出に迷う玄宗に対して、李瑁を推薦する宰相李林甫に反して、年長の李?を勧め、李?が皇太子となった。天宝初期に冠軍大将軍・右監門衛大将軍・渤海郡公となった。この頃、天下の事を李林甫に託して、導引の道に入ろうとする玄宗を諫めて怒りを買い、陳謝の上で自宅に帰ることとなった。天宝7載(748年)には驃騎大将軍に任命され、数え切れないほどの富を蓄えていたという。しかし温厚、勤勉で過失が少なく、驕ることもなかったので、玄宗から変わらず信任を受け、士大夫からも嫌われることはなかった。天宝11載(752年)、王ヘの弟・王?と刑縡が乱を起こそうとした時は、禁軍400人を率い、刑縡を斬っている。また、楊国忠の専横について、玄宗を諫めたこともあった。

安禄山が不穏な動きを始めた後も、朝廷と彼との調停役として活動している。



















晩唐の詩人たち




● 晩唐期の詩人たち

   晩唐は繊細で感傷的な詩風が主流となる。代表的な詩人として杜牧・李商隠・温庭?・韋荘・韓?がいる。さらには王朝の衰退に伴う社会の動乱を憂え、詩歌による社会改革を訴えた皮日休・陸亀蒙などの詩人も現れている。


351牛橋  ぎゅうきょう生没年不詳

晩唐の詩人。字は松卿。隴西の人。乾符五年に進士となる楊柳枝(呉王宮裏色偏深)


352杜牧とぼく803〜852

 京兆万年の出身。字は牧之、号は樊川。828年の進士。剛直にして気節の人と評されるが、若い頃は遊興を好んでしばしば節度がなかったという。揚州の淮南節度使/牛僧儒の書記となり、密かに護衛が附される程に将来を嘱望され、中央に召されると監察御史・殿中御史などをつとめた。後に地方に出されて刺史職を歴任したが、上書した辺防策が認められて中央に召され、中書舎人まで進んだ。

 憲宗期に名臣と称された祖父の杜佑に対して「;小杜」と呼ばれ、美貌の風流才子として知られたが、当時の技巧・繊麗を尊ぶ詩風に反撥し、前期の平明の風を継承して「情致豪邁」と称された。

1.江南春絶句    2. 泊秦淮   3.山行   4.清明   5 赤壁   6 寄揚州韓綽判官   7. 遣懷     8 贈別 其一  9 贈別 其二  10金谷園   11 過華清宮絶句  12 南陵道中    13 贈漁父   14題烏江亭  15秋夕  16念昔游    22春日茶山病不飲酒因呈賓客    23九日齊山登高

泊秦淮   C明   張好好詩   自宣城赴官上京    


353張姑(ちょうこ)792〜852

晩唐の詩人。別名が胡渭州(こ いしゅう)です字は承吉。清河の人。長慶年間(822ごろ)、令孤楚が朝廷に推薦して官吏としようとしたが、元?に阻まれて官途につけなかった。高官の家に寄食したが、妥協を好まぬ性格のため、身を落ちつけなかった。題金陵渡(金陵津渡小山樓)  何滿子(故國三千里)

354許渾  きょこん791〜854年

晩唐の詩人。。字は仲晦。丹陽の人。現・江蘇省丹陽市。陶淵明の時代では曲阿といった。鎭江市のすぐ南になる。秋思(h樹西風枕簟秋)   咸陽城東樓(一上高城萬里愁)   塞下(夜戰桑乾北)


355李商隠りしょういん812〜858

 懐州河内(河南)の出身。字は義山、号は玉渓子。令孤楚に見出されて837年に進士科に及第したが、令の死後は李党の王茂元の娘を娶ったことで牛党に変節を憎悪され、小官の歴任と罷免に終始して官界では不遇だった。早くから詩人として知られ、自然に情緒を託した詩を好んだが、故事熟語を多用した技巧重視の難解なものが多く、晩唐の詩風の代表者と称される。作詩に際しては周囲に古典資料を並べたため、魚を並べるカワウソに喩えて 獺祭魚 と呼ばれた。

 『古今説海』収録の『雑纂』は日本文学に影響を与え、特に『枕草子』の文学的形式成立の重要な契機となった。

 李商隠の詩風は北宋前期に「西崑体」と称され、楊億・銭惟演・丁謂らによって『西崑酬唱集』が編まれるなど一世を風靡したが、多くは詩句の外形的な模倣にすぎず、華美晦渋な作品が多い。


1.夜雨寄北Yau-kihoku 2.嫦娥Joga 3.漢宮詞Kangushi 4.登樂遊原

Touranyugen 5.錦瑟Kinhitsu 6.瑤池Yochi 聞歌(斂笑凝眸意欲歌) 無題(相見時難別亦難)


356魚玄機ぎょげんき843〜868年

唐代末の女流詩人。長安の人。字(あざな)は尢(けいらん)・幼微。詩文の才能で有名になり、女道士となったが、召使いの女を殺して死刑になった。森鴎外の小説「魚玄機」の主人公。843〜868年。晩唐の詩人。長安の妓楼の娘。 中唐の薛濤(せっとう)と並び称される唐代を代表する女流詩人。 20歳の時、恋人の高級官僚・李億(りおく)と漢陽へ来たが、この地で李億に捨てられる。 道教の尼となった魚玄機は再び恋をするが、その恋人李近仁(りきんじん)をまたも使用人に奪われてしまう。 魚玄機は嫉妬のあまり、使用人を鞭で打ち殺してしまい、これが発覚して処刑された。数奇な運命をたどった情熱の女性。26年の短い生涯だった。


秋思  酬李学士寄箪  和新及第悼亡  江行  江行 (其の二)  聞李端公垂釣回寄贈  題隠霧亭  重陽阻雨  送別  迎李近仁員外  江陵愁望寄子安  戯贈  留別広陵故人  名月夜留別  得閻伯釣書   賦得江辺柳  寄国香

357温庭均おんていいん812〜872

 太原出身。旧諱は岐、字は飛卿。軽薄・放蕩無頼で科挙には及第しなかったが、詩の構想に卓絶して即興の詩余は芸術的にも優れ、詩余に芸術的洗練さを与えた。859年頃に詩名によって特に召されて登用されたが、叙任前に微行中の宣宗に無礼があって罷免された。艶体詩を好んで独特の心理描写を駆使し、詩人として李商隠と並称された。渭上題三首之三(煙水何曾息世機) 菩薩蠻 楊柳枝(娃宮外?城西)  楊柳枝(宜春苑外最長條)  楊柳枝(蘇小門前柳萬條)  贈少年(江海相逢客恨多)


黄巣の乱(こうそうのらん)(875〜84)

唐末期に起きた農民の反乱。王仙芝の起こした反乱に呼応して、山東の黄巣も蜂起・合流。四川以外の全土を巻き込んだ。王仙芝の死後、黄巣は880年長安に入って国号を大斉とし皇帝の位に就いたが、唐軍の反撃を受けて泰山付近で敗死。 乱後、朝廷の権威は完全に失墜し、各地で軍閥の抗争が繰返され、経済都市の開封を得た朱温が華北の主導権を掌握することとなった。この乱は唐朝滅亡の契機となった。


358陸龜蒙 りくきもう  〜881

晩唐の詩人。字は魯望。号は江湖散人。姑蘇(現・江蘇省)の人。同年代の詩人である皮 日休 (ひじつきゅう )がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。呉宮懷古(香徑長洲盡棘叢)


359皮 日休ひじつきゅう830- 883年

唐代の詩人、革命的社会派の学者である。襄陽(現在の湖北省襄樊市)出身。字は襲美、号は閑気布衣、鹿門子、醉吟先生、醉士。友人に、同年代の詩人である陸亀蒙(陸龜蒙)がおり、二人を合わせて皮陸と呼ぶことがある。生まれは貧しい家だったが、咸通8年(867年)に彼は進士に及第し、咸通10年869年に蘇州の治安判事になり、著作郎、太常博士などを歴任した。この頃は、故郷に近い鹿門山に籠居し、酒と詩を友とする生活を送っていた。しかし、黄巣軍が首都長安を占拠すると、その政府に入って翰林学士となったが、後に疑われて殺された。?河懷古   牡丹   


360鄭畋(ていでん)825〜883

唐末の政治家。?陽(河南省?陽市)の名族鄭氏の出身。字は台文。武宗期に進士となると李徳裕に引き立てられ、内外の官職を歴任して僖宗期には宰相となった。黄巣の広州節度使職要求に対し、ひとまず広州節度使を与え、生活安定によってその内部崩壊を待つべきだと主張し、高駢の武力を頼む盧?と対立した。広明元(880)年に鳳翔節度使に任じられ、黄巣が長安を占領すると諸藩鎮に呼びかけて反撃体勢を作り上げ、一度は長安回復に成功するも黄巣軍の逆襲に会って敗れた。行軍司馬の李昌言に節度使職を奪われて成都の行宮に遷り宰相に任じられたが、成都で実権を握っていた田令孜、陳敬?らと対立し、検校司戸、太子太保の閑職に左遷され、さらに龍州に流されて卒した。馬嵬坡(玄宗回馬楊妃死)


361黄巣こうそ?〜884

黄巣は科挙に落第した塩徒で、王仙芝とほぼ同時に挙兵し、王仙芝が朝廷の招撫に傾くまでは行動を与にした。当時の中国は宦官の専横・藩鎮の自立・対外戦争などによって塩の専売と各種雑税の増額が重く、これに天災による飢饉が加わって、流民の多くが匪賊となって塩徒と結託し、全国に普遍的に存在していた。当時の塩商の殆どが塩徒で、その反官憲的性格は武装と広範な組織力を擁し、流亡農民と結託すると大規模な叛乱に発展する可能性を常に孕んでいた。

 黄巣は各地を転戦しつつこれら草賊を吸収し、官軍に対して遊撃戦を展開しながら大勢力に発展し、878年に広州を占領し、880年には洛陽・長安を陥落させて僖宗を蜀に逐って斉帝と僭称した。これを境に急速に紊乱化し、略奪によって民心をも失い、有力部将の朱温が朝廷の招撫に応じ、沙陀族の李克用も参戦した為、883年に長安を逐われて華北・華中を流寇し、いちじ蔡州を陥して頽勢挽回を図ったものの成功せず、まもなく平定された。題菊花   詠菊


362劉綺莊  りゅうきそう生没年不詳

晩唐の詩人。毘陵(現・江蘇省武進県地方)の人。宣宗の時に官州の刺史となる。揚州送人(桂楫木蘭舟)


363唐彦謙  とうげんけん生没年不詳

晩唐、咸通〜中和時代の詩人。字は茂業。井州の人。金陵懷古(碧樹涼生宿雨收)


364趙瑕  ちょうか生没年不詳

晩唐の詩人。江樓書感(獨上江樓思渺然)


365陳陶  ちんとう812年〜885年頃

晩唐の詩人。字は嵩伯。その詩は平淡をもって知られる。長安に遊学するが志を得ず、後に南昌の西山に隠棲する。隴西行(誓掃匈奴不顧身)


366張喬(ちょうきょう)生没年不詳

懿宗の咸通年間の進士(?)。池州(現・安徽省貴池県)の人。黄巣の乱の時、九華山に隠れ棲んだ。生没年不詳。宴邊將(一曲涼州金石清)


367于武陵〔うぶりょう) 810-未詳

于武陵(う ぶりょう、810年 -?)は、中国・唐の詩人。杜曲(陝西省西安市の南郊)の出身。名は?(ぎょう)。武陵は字であるが、通常は字で呼ばれていた。宣宗の大中年間(835年頃)に進士となったが、官界の生活に望みを絶ち、書物と琴とを携えて天下を放浪し、時には易者となったこともある。洞庭湖付近の風物を愛し、定住したいと希望したが果たせず、嵩山(すうざん)の南に隠棲した。今、『于武陵集』一巻が残っている。勸酒(勸君金屈卮)


368高駢こうべん821〜887

 字は千里。幽州(現・河北省)の人。文武両道にすぐれた人物で渤海郡王にまでなりました。禁軍将校の家門の出で武芸を好み、儒学・文学にも造詣があった。党項討伐・南詔撃退に功があり、安南都護・成都尹・剣南西川節度使・天平節度使などを歴任した。877年に江淮塩鉄転運使として王仙芝を大破し、889年からは淮南節度使として黄巣討伐の全権を与えられたが、境内の保全に終始して黄巣の北上を黙認し、880年の潼関陥落と僖宗の四川蒙塵を招来した。後に自立を図るようになり、妖宗の狂信を不服とする部下に殺された。山亭夏日(克陰濃夏日長)


369聶夷中(じょういちゅう) 837〜884

唐末〜の詩人。字は坦之。河東の人。咸通十二年(871年)に、科挙に合格する。官は華陰尉。詠田家(二月賣新絲)

370曹松そうしょう830−901

唐の官吏。字・夢徴(ぼうちょう)。舒州(じょしゅう・現在の安徽省潜山)の人。早くより職を失い江湖(こうこ)に漂泊し、一生貧に苦しんだが、最晩年、ようやく進士に及第する己亥歳


371杜荀鶴(としゅんかく) 846〜904年

晩唐の詩人。杜牧の末子。大順二年(891年・昭宗)に進士に合格する。字は彦之。九華山人と号す。安徽省池州の人。杜荀鶴(と じゅんかく、846年 -904年(907年?))は、中国、晩唐の詩人。池州石台の人。字は彦之、九華山人と号す。京兆万年の杜氏、杜牧の末子ともされる。大順2年(891年)の進士。

朱全忠に気に入られ、翰林学士、主客員外郎、知制誥となる。琴詩に巧みな風流人であったが、権勢に驕り、他人には憎まれていた。人を殺そうとしていたところ、あるいは、殺されそうになっていたところ、その直前に病死したという。「安禅は必ずしも山水を須ゐず、心頭を滅却すれば火も亦た涼し」夏日題悟空上人院


372羅隱(らいん) 833〜909年

五代の詩人。字は昭諫。本名は横。江東生と自号する。呉越、新城の人。晩年、呉越王銭鏐に仕えて、銭塘県令などを任じた。後梁の朱全忠に諫議大夫として召されるが行かず。『舊唐書・列傳・羅弘信・子威』「錢塘人羅隱者,有當世詩名,自號江東生。」或いは「江東人羅隱者,佐錢鏐軍幕」(『舊五代史・梁書』)ともする。自遣(得即高歌失即休) 江南行(江煙涅雨蛟?軟)  蜂(不論平地與山尖)


373韋荘いそう836〜910

 中国、晩唐の詩人。字(あざな)は端己(たんき)。杜陵(陝西省西安)の人。温庭?(おんていいん)とともに唐五代の詞を代表する。唐末の都の荒廃をうたった長編の七言古詩「秦婦吟」が有名。

長安の春  秦婦吟  金陵圖(江雨霏霏江草齊)   古別離(晴煙漠漠柳??)   題酒家(酒拷ヤ紅客愛詩)


374皇甫松こうほしょう生没年不詳

:皇甫が姓。睦州の人(現・浙江建徳)。皇甫Gの息子。生没年不詳。唐代の人。花間集では「皇甫先輩松」とある。唐代では、進士を先輩と呼ぶので、進士で、出仕 しないで終わったか。  


375秦韜玉(しんたいぎょく)882〜未詳

唐末〜の詩人。字は仲明。京兆(現・西安)の人。中和二年(882年)に進士及第を賜った。貧女(蓬門未識綺羅香)


376汪遵(おうじゅん)生没年不詳

晩唐の詩人。生没年不詳 その作品は全唐詩にある。字は不?。長城(秦築長城比鉄牢)